働きに「B」の評価のおりたるもくじけず生きた我の愛しき

 教師が生徒に成績をつけることは、知られているが、教師も成績をつけられることは、世間にはあまり知られていない。「教職員評価」は、始まってから二十年近くになる。これは自己目標を立て、実践し、自己評価し、校長が最終評価するというシステムだ。さらに、近年給与や賞与に評価結果が反映されるようになった。自己目標を立てるときには、学校目標やグループ目標の実現のために、自己目標を決める。だから、自由に決められない。だから、子どもの実態に沿った目標にならない。評価は、SABCDで、Sは「特に優秀」、Aは「優秀」、Bは「良好」と呼ぶ。「B」は実質「普通」で、賞与は規準より下がる。しかし、目標に達しているのだ。多くの「B」の人を下げた金で「S」や「A」の教員の賞与が上がる仕組みだ。明らかに変だ。教職員の不公平感を生む。

 

 私は、自己評価で「B」としたときに、子どもとの楽しい記憶が遠のいたのを覚えている。そして、校長の評価も「B」だった。「普通」ということなのだ。私は、がっかりした。私は、組合の立場で「教職員評価」は、教育現場にそぐわないとして反対をしていた。教職員評価に縛られることなく働き実践をしてきたつもりだった。だが実際「B」になると、がっかりした。「教職員評価」は、多くの教職員を落胆させていることだろう。そして、評価とは人が生き、働くのに不必要だと思う。

 

 組合の会合で、教職員評価のことで、ある教師が、「月に百時間の時間外労働だった。だけど評価の面談があって、評価がBだった。」と話した。その教師のがっかりした顔が忘れられない。自分の姿と重なった。時間外労働が百時間など、自分の健康や命を削って働いたのだ。その苦労を「普通」としていいわけがない。「教職員評価」が、教師の「やる気」を引き出すなどと、管理側は言っているけれど、全く違うのだ。

 

 「普通」であることがどんなにすごくて、すばらしいことか、自分に、そして全ての教師に告げたい。