担任が、子どもが使う副教材を決めるのは当たり前のこと

この当たり前がどうしてできなくなっているのか?

「なれ合い」で失ってきたものは教員の教育権


静岡新聞記事

またまた多くの県民に衝撃

 静岡新聞が10月4〜6日の3日連続、一面トップで取り上げた【シリーズ「静岡の学力・小6最下位の衝撃」上中下】は、多くの県民にとってショックな報道でした。教職員の皆さんもきっと読まれたことと思います。この記事を読んだ一般県民の声が全教静岡に届けられました。
□ 西部地区の50代男性、「驚いた。そんなふうになっていたのか。自由に選ぶことがないと、教材を見る目も衰えてくるのではないのかと思う。」
□ 東部地区の40代女性、「子どものテストがそうやって決まっていたなんて、すごく不愉快です。テスト代は学年費で、親が買っていると思うんだけど、いやだな。返してほしくなっちゃいました。」

現場の異常さを鋭く指摘

 記事は3部構成です。小6学力テスト最下位の背景を探る中で、まず県内の小中学校で、県出版文化会(「出文」)発行のテストなどの副読本が圧倒的なシェアで使用されている事実と向かい合うことになります。「出文発行テストの質に目を向け」(上)、「教員のちゃんとした吟味がないまま決められている実態があること」(中)、「この状況を生み出している背景に関係者間のなれ合いがあるのでは」(下)と問題提起しています。
 それでも、記事は、「出文」と県校長会に対して一定の配慮をしています。また、指導するためのテスト等副教材を担任自身が選択できなくなっていることへの疑問を呈しながら、背景に教員自らが組合員として組織している静岡県教組(「静教組」)が重要な役割を果たしていることの矛盾には深く触れていません。ここには「静教組」への配慮が感じられます。
 しかしながら、タイトルは「まひした教材選び」(中)「なれあい、体制硬直」(下)です。学テ小6最下位と結びつけた記事であることは別としても、紛れもなく、静岡県の教育界の異常さを鋭く指摘し、問題提起したことに間違いはありません。

なれ合いの歴史

 記事のように、まさしく教職員組合と校長会(管理職)との「なれ合い」が生んだことなのです。「なれ合う」ということは、教職員組合が実質校長会の「下部」を担うことを意味します。
 「静教組」は、執筆者を送ることができます。実際に組合員でなければ執筆者になれません。そして、できあがった商品を自らが買うのです。そのやりとりを確実なものとするのが、校長・教頭の管理職、そして元校長ら、とりわけ天下った者たちです。
 こうした「なれ合い」は40年以上も前にすでに問題となっていました。1971年頃の「静教組」教文担当者会議のやりとりのようすを思い出してBさん(81歳)が話します。
 会議では、県内各地の出文の採用率が一覧となって配布されました。それによると静岡市が50%弱、三島が80%、他はほとんど100%でした。
西部地区の組合員A「静岡市はおかしいじゃないか。我々がつくっているテストを採用しないなんて」。
静岡市職員組合(「静岡市教組」)」(当時は「県教組」に所属)組合員B「それは逆におかしい。やはり中身を見て、担任が子どものことを考えながら選ぶべきだ。当たり前のことだ。」
 この後、熱い議論が交わされたとのことです。

静岡市教組、一貫して問題を指摘

 テストなどの副教材は担任(学年部教員)が選択できるのは当たり前のことです。それができない学校現場は間違っていると、その改善を、静岡市教組は、すでに40年以上も前から指摘し、是正を求めてきました。今日でも静岡市の学校では、選択の自由が認められているのはまさにその結果なのです。そして、全教静岡も全県でこの運動を進めています。

だからこそ個々の教員の教育権を

 今日、個々の教員の教育権(自主性・主体性・裁量権など)がないがしろにされてきています。言葉の上では、個性を求められながら、一方で、出る釘は打たれる的な状況は、学校現場でも非常に顕著です。そうした結果、教員自身の権利への認識が薄れ、主張しなくなってきたことも否めません。
 全教静岡は、今日の学テ成績向上キャンぺーンに与する立場には立ちません。一人一人の教員の教育権がもっと尊重される学校現場であったとき、自ずと授業のようすも、学校のようすも、子どものようすも変わってくると考えます。


 先のBさんは言います。

「先生にもっと任せればいいんだよ。子どもたちのこと考え、みんないいことやろうと工夫するよ」