静岡大空襲を「忘れてはならない日」!

 2006年6/16付「静岡新聞」の夕刊“窓辺”に作家の西村美佳孝さんの、『戦争の真実を語る』と題した「6月18日は浜松市民が忘れてはならない日である。」の書き出しの一文が載っていました。

 実は、その後の6月19日・20日は、静岡市でも「忘れてはならない日」です。

 「波状攻撃によって燃え上がった浜松市のきなくさいけむりは、翌19日の朝から、静岡市の上空にまでたなびいた。それが何のけむりなのか、静岡市民の多くは知らなかったが、浜松空襲の42時間後に、市街地の7割が灰じんに帰するという大惨事が待ち受けていたのだ。  
 19日の深夜から123機のB29は、数梯団に分かれて北上し、御前崎方面から静岡市上空に侵入した。高度は約2400m。灯火管制で真っ暗な街に、先行した1機が照明弾を中空にばらまいた。最初に火の手が上がったのは、駅南の国鉄官舎付近(現在のアピタ)、つづいて第2弾が浮月楼や東海軒あたりに落ちた。1時間たらずで炎は市街地全体を包んだ。
 来襲機は1〜4機で、1分くらいの間隔をとって、つぎつぎに約3時間、爆撃をくり返し、南方海上に脱出した。米軍資料によると投下された焼夷弾は1321発、868トンと、高性能爆弾51発。この焼夷弾は主としてM47型焼夷弾とM69型集合焼夷弾で、M47型は70ポンドの膠化ガソリンをつめた大型焼夷弾。M69型集合焼夷弾は、ナパーム(油脂。米軍が開発したもので、きわめて高温(900〜1300度)で燃焼し、広範囲を焼尽・破壊する。着弾点から比較的遠くても、ナパーム弾の燃焼の際に大量の酸素が使われるため、窒息によって死亡することもあった。)をつめた小型の六角筒48発を内蔵し、300m上空でばらまかれ、点火した麻布のテープを引きながら地上の建造物などに当たって炎上させた。
 1坪に何発も集中して落下したため、からだに筒の直撃を受けたり、油脂の飛沫を浴びて倒れた人も多かった。
 大火災によっておきた突風は、さらに火勢をあおり、火災は表通りから路地裏へと走り抜け、逃げまどう人々を包んで焦熱地獄をくりひろげた。

 一夜明けた市街地は、一面の焼け野原。わずかに残ったのは、県庁、市役所、警察署、日赤病院、勧業銀行など追手町の官庁街の一角と呉服町の静岡銀行日本銀行、紺屋町の静岡新聞社など鉄筋の建物だけで、逃げ遅れた人々の黒こげ死体が、各所にころがり、肉親や知人の死体を探す人々は、その中をあてもなくさすらい歩くという、死の街であった。
 安倍川の川原は、火葬場となり、川原木を集め、不発の焼夷弾から油脂をぬいて燃料にし、トタンをかけたりして犠牲者を焼くけむりは、いく日もたちのぼりつづけた。ひきとり人のない死体は照りつける太陽や、そぼ降る梅雨を吸ってふくれあがり、鼻をつく死臭があたりにただよい、やがて囚人たちの手で片づけられていった。
 静岡警察署の資料によると、この夜の空襲の死亡者は 1,952人、重軽傷者
11,770人。一方、「静岡市戦災復興誌」によれば、被災世帯24,459、
被災者114,000人にのぼるが、いずれも正確な数字はわからない。
 負傷者の手あてのため、県庁、日赤病院、陸軍病院、静岡警察署、市公会堂など15か所に救護所が仮設された。しかし、おびただしい負傷者に手のとどいた治療は不可能だった。むしろやござに横たわった負傷者の傷に、魚油でつくった代用のチンク油をぬってまわるのが、精いっぱい。重症患者には、麻酔ぬきの野戦病院さながらの手術が行われた。
 焼け出された市民は、5日分のにぎり飯や乾パンの特配で飢えをしのぎ、焼け残った学校や公共施設の避難所で寝苦しい夏の夜を過ごさなければならなかった。」

(以上、『画集 静岡市空襲の記録 街が燃える 人が燃える』(静岡市平和を考える市民の会 編)より。

戦争する国、それを支える人・・・そうならない、そうさせない思いで…