平和、民主、平等 から 国益、能力、競争 へと変質される 

教育基本法は、「平和、民主、平等」に貫かれている。それが改悪されると、「国益、能力、競争」に変質させられる。

戦後日本は教育に高い志を持っていた

敗戦後、経済どん底の中なのに、日本はGNP比で世界一の教育費を支出してきた。60年代まで続いた。金がない、という声に対して、当時の文部省の担当官が号泣しながら訴え、それに対して国会議員も号泣していたという当時の記録が残っている、と。教員の免許も大学レベルで取ることができるように改めたのも、教育への「高い志」のあらわれ。当時世界でも大学レベルでの免許取得は、アメリカの17の州のみであった。
 その教育重視が、戦後の日本を支えた。
今世界は、教育を重視している。アメリカの校長は博士課程修了者になっている。それだけ教育が高度なものになっている。ところが、日本は逆。日本の教師はいじめられる。

法の改悪は「心の管理国家」づくり、教育のクーデター

 徳目、心の問題、価値条項を法の中に入れるのは、19世紀の絶対主義国家か、全体主義国家だけだ。改悪案は(民主党案も)歴史に逆行している。教育基本法全文にもあるが、憲法の範囲内でのことだ。
 占領政策で、フィリピンや韓国に民主化政策は全くなかった。しかし日本の場合は、憲法教育基本法ができた。マッカーサーの政策は日本の「国体護持」だったことは最近常識だが(知らなかった)、天皇条項を残すために必要だった。「押しつけられた」という安倍首相こそ、自分の国の歴史を知らない。
 価値条項だらけで、行政の拘束でなく国民を拘束する(与党公明党自民党・政府案も民主党案も)法など、近代法ではありえない。
 戦前の「教育勅語」ですら、起草者は「立憲主義がなりたたなくなる」として、法律にしないで、しかも法的拘束力の強い「勅令」や「勅諭」にしないで、一番下の「勅語」にしたといういきさつがある。その意味で改悪案は、教育勅語よりもひどい。
 したがって、改悪案が通れば、勝手に動き出す危険性がある。憲法も無視して、単独に機能しやすい。特に学校現場はそうなりやすい。
 フーコーは「権力者がそうしなくても、自然にそうなってしまう。」「全体主義の内面化」「高速道路に乗っているようなものだ。」と言っている。つまり、快適に走っているつもりでいて、実は止まれない、戻れない、その道を走るのみ、と。「この時代は?」と立ち止まって問わない、問うことのできない社会になる。
 学校現場に混乱が起こるだろう。日本の教師たちは、非常に高い献身性を持って仕事をしてきている。つまり、平和、民主、平等のために。それが、「公共」を押しつけられ、国益、能力、競争のために仕事をしろと言われたら、どうなるだろう。   【つづく】