東日本大震災支援ニュース 第25号

全教(全日本教職員組合)・教組共闘 東日本大震災対策本部
2012年3月16日

 東日本大震災原発事故から1年。あらためて、犠牲になられた方々に深い哀悼の気持ちを表明します。私たちは、この一年、被災地に心を寄せて活動を進めてきました。あらためて、「いま被災地に何が求められているのか」考えようと、2月25日〜26日、「被災地のいまを訪ねる行動」にとりくみました。そこで見たものは、生活や仕事の再建が遅々として進んでいない被災地の現実でした。
 子どもたちが安心して学び、生活できる環境をとり戻すまで、私たちはとりくみを続けます。


全教は、2月25日〜26日
【被災地の“いま”を訪ねる行動】への参加をよびかけました
 この呼びかけに、岩手・宮城・福島の3県からの12人をはじめ、全国から77名が参加しました。

子どもと教育を語るつどい2012……2月25日仙台

被災地で「学校」と「教育」の意義を語り合いました

2月25日(土)午後、「子どもと教育を語るつどい2012『被災地で ともに考え語りあう子どもの幸せと教育の未来』」

が開催されました。

制野俊弘さん(東松島市立鳴瀬第二中学校)〜宮城からの報告。

 津波で校舎が使えなくなり、別の学校に間借りする生活。でも、その中で、運動会にとりくみます。生徒たちと運動会の一つ一つのプログラムを作っていく中で、生徒たちが元気を取り戻し、生活する意欲を取り戻していく、それが学校の復興につながり、地域を元気にしていき、そして感動の運動会。それは、まさに感動のドラマでした。
 しかし、一方で統廃合の動きが加速しています。「学びたい子どもがいて、それを支える地域があって、ともに学びたい教師がいれば学校は成り立つ」「住民がいないから学校をなくすというが、反対に『学校』があるから『住民』が集まり『地域』が守られるのではないか」という制野さんの発言に、拍手がおくられました。

岩手県陸前高田市岩手県立高田高校の伊勢勤子さん

 「大学の推薦入試の面接で、被災当時のことを質問されて涙が止まらなくなってしまった生徒がいた」ことなど、つらい体験を報告してくれました。

「ふくしま復興共同センター放射能対策チーム」の佐藤晃子さん

 「避難生活も福島での生活も、どちらも選択できるよう自由を保障してほしい。外で遊べない中、子どもたちの体力低下が心配だ。乗れていた自転車に乗れなくなった子もいる。」と、報告しました。

被災地の教職員との交流のタベ……2月25日仙台

「家族の日常生活を奪った原発事故。でも、きょうのように集まって話す場があることで前に進めます。」(福島高・小林さん)

 2月25日の夜は、「被災地の教職員との交流の夕べ」。70名の参加者全員が、一言ずつ、どんな思いで参加したか、ボランティアその後、いま被災地に思うことなど、語り合いました。
 福島県立高教組の小林さん(子ども三人)は、子どもたちを多賀城に避難させたこと、でも末の子は親と離れるのを嫌がって福島にいること、日常の生活が原発事故によって奪われてしまった悔しさ、辛さ。「でも、きょうのように集まって話す場があるから、前に進めます」と発言。
 交流会の最後に、「あなたが夜明けを告げる子どもたち」を全員合唱して終わりました。
 参加者からは、「よい機会を作っていただき、感謝」「様々な思いや実践を聞けて
良かった。忙しい中でも大切なことだからこそ時間を作るという言葉が、心に残った。」と感想が聞かれました。
 全教・教組共闘らしい、連帯感があふれる、暖かい交流の場となりました。

被災地を訪ねる行動2月26日(日)

 朝8時から貸切バスで、東松島石巻・女川を訪ねました。
 
「現地の先生方のお話からも、復興ヘの道の険しさを思った。」
「事実を見て、何と何をすべきか考えた。」


 津波被害にあった野蒜小学校・鳴瀬第二中学校・門脇小学校・石巻市立女子商業高校を訪ねました。
 現地に立って、そこに勤務されている先生方に、地震当時のお話、間借り校舎のこと、子どもたちの様子、現在のお話を聞くことができました。
 ボランティアで活動した水産加工場。ヤマトミ水産は元気でしたが、ほかの加工場はまだまだ。「水産加工が復興しなければ、石巻の本当の復興はない」と言われていますが、県は、住民の声を聞かずに「漁業特区」構想をすすめようとしています。
 女川では、女川第二小学校の校舎で、3つの学校が学校生活を送っている状況を見て、仮設住宅に暮らす岡野さんのお話を聞きました。
 女川原発に対して、建設反対運動を行い、建設された後も住民の安全を守るねばりづよい運動があったことも聞きました。
 参加者は、「報道だけで知っているつもりになっていた。津波が突き抜けた校舎、がれきの山などを見て、天災の部分と、私たちが取り組まなければならない人災の部分と、これからもずっと考えていかなければならないと思った。」と感想を話していました。